仲舛高一
OB会誌「ぷれりゅうど」創刊号より
鳥大マンドリンクラブOB会結成を祝して
岡垣竹樹(TMC顧問)
今回(昭和40年・1965年)鳥大マンドリンクラブ(TMC)OB会が結成・発足されることは、誠によろこばしいことである。
従来のクラブの発展・躍進は、現役部員の研鑽によるところは言うまでもないが、OB会が厳然と存在することは、そのバックボーンとして、大いに現役人が力強さを増すことは明らかである。
今日の日本プレクトラム音楽会に名声を保持しているマンドリンクラブは、慶應大をはじめ、いずれもOB会の力があってこそ、継続・発展したものであるというのも過言ではない。僕がTMCに関係したのは、5年前(昭和35年・1960年)だが、OB会が発足されるほど会員が輩出するようになった現状を眺めると、創立当時の喜び・張り切りと労苦を想起して、感慨無量のものがあるとともに、歳月の経つことの早いことを今更ながら痛感する。
クラブ創生当時の経緯を駄筆をもって記して、会員諸君のご参考になればと思いペンを進める。
何事も初めて旗揚げするまでには、一抹の不安感と強い断行心の交錯がある。それは妊婦の初産に際して、誰もが抱くであろう不安、苦慮、陣痛感にも似ている。
昨秋、TMCの第4回定期演奏会に聴衆の一人として耳を傾けた。そして、その隆盛を眼前にした時、クラブ発足当時の学生との労苦を共にしたことを偲んだ。それは薫風がいっぱい僕の音楽室 兼 応接室に漂っている新緑の某日の夕、庭先の隣家に居住していた森岡康弘君が一人の色黒い学生を伴ってドアをノックした。目に迫った太い眉の情熱に輝く瞳の持ち主を紹介された時、学生時代にギターを手にした南洋の島々を旅したことのある僕にとって、彼は南国育ちの学生であることが直観された。
仲舛高一君である。彼らは時の経つのも忘れ、僕の学生時代の慶應マンドリンクラブの体験談に耳を傾け、これから誕生させようとするTMCの構成、運営等について、討論・討議した。
もっとも、当時既に、西田浩史君をはじめ、プレクトラム音楽に関心をもっていた学生は2、3人あったが、学生の文化サークルとして大いなる功労者は森岡君の熱意と仲舛君の指導力、西田君の協力等が実を結び、TMCは誕生したのである。
部長は獣医学科の田口静雄教授の諒承を得て、部員は大いに勇気づけられた。
当時、クラブの部員は農学部の学生が過半を占め、それに医学部進学過程から土井、福島の両君等数名が参加したが、学芸学部からは一人の参加もなかった。
発足当時のメンバーは十指に足らないかの数で、農学部のYMCAの狭い部屋で互いに楽器が触れ合う不自由さを忘れてレッスンを始めた。
全員の熱心さは、脳裏に今でも強く印象づけられている。部員は日毎に増し、田口部長の口添えで、農学部の記念会館の地下室を利用できるようになった。部員一同は、公開発表コンサートを、一日も早く持ちたいと念願して、学業の余暇を音楽技術の研鑽、向上に注いだものであった。
コントラバス、マンドリンセロ購入資金募金のため、ダンスパーティーも開いた。全部員のコンサート開催に対するはやる気持ちはよく読みとれたが「ローマは一日にして成らず」の信条を押し通し、あくまでも基礎練習に指導方針を集中した。
技術の上達が日増しに目立ってきて、次にステージ度胸の育成のため福島君をコンサートマスターとして、それに僕の門下生の山根はる江と木村美幸の応援を得て、わずかなレパートリーではあったが、湖山の国立末恒療養所で慰問演奏を行ったのが部外活動の第一歩であった。その後、学内演奏会も開催し、ステージマナー等も併せて養成した。
そして、翌年の秋には、華々しく遷喬小学校講堂で第1回定期演奏会を開催した。当時の森岡君の緊張した姿、仲舛君の興奮した瞳など、未だに忘却しがたい。
次年度幹事の茶藤 修 君の熱意は高く評価されていいと思う。当時、全日本学生マンドリン連盟が結成される機運にあったので、彼を伴って上京し、斯界の権威者で僕の先輩である服部 正 氏を訪れ、連盟の詳細を聞き、検討し、中国地方の国立大学では第一番目の加盟校となった。
山陰の小都市の鳥取で学業を修了されたOBの諸君はTMC部員であったことは終生忘れられない楽しい思い出の一こまであろうと僕は信じる。
そして、社会人となられた今日、単に部員であったという趣味の交友関係だけではなく、いついつまでも長く親交を結ばれることを希望する。
OB会の方々の勤務先は、北は北海道から南は沖縄にわたるとか・・・。また、今後は海外にも雄飛される人もあるであろう。
OB会員のご活躍とご健康を祈って止まないとともに、現役メンバーに絶えざる激励と声援を送っていただきたい。
これは、TMCの地方音楽文化面に貢献するというだけでなく、広く日本の学生文化運動の一翼としての使命を担っているという誇りを持たすものといえよう'。
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[岡垣竹樹氏ご経歴]
◎慶応義塾大学経済学部卒、同大学マンドリンクラブOB
◎ギターを小倉 俊、ヴァイオリンを井上武雄(東京芸大)、音楽理論を服部 正 氏に師事
◎大連マンドリンソサイエティで指揮
◎戦後、鳥取市にて「プレクトラム音楽研究所」を主宰
◎鳥取大学顧問 第1回、第2回定期演奏会で指揮
◎作曲「貝殻節を主題とした変奏曲」
第1回定演(初演) 第3回定演 で演奏
◎編曲「遥かなる西部組曲」
第1回定演(初演)
編曲「ラテンヒットメロディー」
第2回定演(初演)
(TMC 部誌 ECHO より)
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第8回鳥取市文化賞
岡垣 竹樹氏(おかがき・たけき)
一音会会長。鳥取でのギター、マンドリン音楽の普及、向上のため、愛好家の指導、育成に努める。
昭和41年、クラシックギター音楽普及のため一音会を結成、毎年、演奏会を開催。本年8月、慶應マンドリンクラブを、また9月にぐんま石原合奏団を招いて演奏会を開催 (湯所一丁目)
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編集を担われたOB 故 中島勝男氏に敬意を表して
出典1:[TMC創立60周年記念 OB会記念誌] 2019(H31)年3月吉日 刊 p.7-8
出典2:とっとり市報 1983年(昭和58年)11月号 3頁
'24/12/3 HP up 文責:大谷恭一
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[服部 正 ]
TMC創立の経緯
S.33年度入学 農学部 仲舛高一
私は昭和33年に農学部の農芸化学科に入学して、2年目だったと思います。当時、ギター曲「禁じられた遊び」という曲が大変ヒットしていました。
当時、私は コーラスはやって居ましたが、楽器は全くやって居ませんでしたが、ラジオで流れてくる、この曲を聞いて、いつも 素晴らしい曲だなと興味を持っていました。そういう時に、たまたま、学内で、休み時間に、この曲を 誰かが どこかで、弾いている人がいたので、その 弾いている人を探しに行ったら、一人の男子学生が弾いていました。
とても素晴らしい演奏をしている学生がいて、ずーっと聞き込んで居ました。演奏終了後、名前と専攻科を聞くと、農業土木科の森岡康弘さんである事を知りました。学年は 私と同期でした。
そして、彼は 慶應大学の慶應大学マンドリンクラブ出身の方で、鳥取銀行に勤務して居られる、岡垣さんと言う方の自宅に下宿して居ました。そして、岡垣さんは、自宅で マンドリン・ギターの教室もひらいていました。そこに、目を付けて、森岡君は そこに下宿していたそうです。
私は、森岡君の ギター演奏にほれ込んで、彼と よき友達に成り切りました。そして、私も ギターをやりたいと思って彼に話付けたら、彼が 岡垣先生と話合うといって、自宅に連れていってくれて、岡垣先生と話合うことが出来たのです。
話し合い中で、「鳥大にマンドリンクラブはあるのか」と聞かれ、「無い」と云ったら、「ではマンドリンクラブを作ろうではないか」と言われ、「先生が指導してくれますか?」と聞くと、「指導する」と言われたので、すぐ、農学部内にクラブを造る事にしました。
そして、私もマンドリンを購入して教えて貰う事にしました。私は、入学時から、合唱部に入って、合唱をして居ましたので、楽譜の読み方、合唱でコンサートに出演させて貰っていたので、楽器さえ弾ければ、曲の演奏は可能でした。
そういう態勢もあったので、岡垣先生に マンドリンの指導を受け、マンドリン合奏に入り込んで行くことが出来ました。当初部員は10名程度だったと思います。
早速 演奏活動を始め、何箇所か小学校で演奏したりしました。そして、私達が4年時に、公共ホールで演奏会を持ちました。
当時は、農学部と学芸学部は遠く離れた教室でしたので、一時は農学部だけの演奏会でしたが、学芸学部からの希望者も増え、合同で行うようになったと思います。
沖縄県名護市東江
仲舛高一
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編集を担われたOB 故 中島勝男氏に敬意を表して
出典:[TMC創立60周年記念 OB会記念誌] 2019(H31)年3月吉日 刊 p.6
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玉稿を通読しつつ、入力しました。校正をしたくなる箇所(漢字の使い方など)が少なからずあります。が、(自身は知らない)仲舛先輩のお人柄がうかがえる文面、さらに、間違いなく手書きの文書をワープロ入力されたであろう中島勝男先輩のご努力に敬意を表し、出典の記述を活かしました。
但し、読み易くするために、段落、行間の調整はしました。(文責:大谷恭一 '24/12/4 up)
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