top of page

武井守成 2020年 生誕130年 

1890年10月11日~1949年12月14日(明治23年10月11日~昭和20年12月14日)

寄稿:中島勝雄氏(OB)

 2020年は日本のマンドリン・ギターの父として尊敬されている武井守成の生誕130年でした。

 父は第2代鳥取県知事の武井守正で、守成は鳥取市で二男として生まれた。

 東京外国語大学イタリア語学科に入学し、20歳でイタリアに留学した。

 その際、耳にしたギターの音色が武井の心を捉えた。帰国するとすぐにギターを習い始めた。最初の師は、日本にマンドリンとギターを持ち帰り、授業を始めた比留間賢八だった。次いで、慶応義塾大学マンドリンクラブを創設した田中常彦の門下生となった。

 そして、、1915年に25歳で「シンフォニア・マンドリーニ・オルケストラ(SMO)」を結成し、同時に、月刊の研究雑誌「マンドリンとギター」を創刊した。

 守成は、1917年に、宮内省に入省し、式部官、式部長官などを歴任し、1947年まで務めた。

 やがて、日本人の心象風景の調べを主とした日本の旋律で音楽をつくる必要性を感じ、1919年からマンドリン合奏曲やギター独奏曲の作曲を開始した。

 1923年に、日本で初めてのマンドリンオーケストラのコンクールを開催し、齋藤秀雄や(斎藤の愛弟子)小澤征爾ら、多くの音楽家を育てた。

 1924年には作曲部門も開催し、1939年の作曲コンクールでは服部 正 が入賞した。

 武井は創設した合奏団を「オルケストラ・シンフォニカ・タケイ(OST)」と改称し、指揮も行った。このような武井の功績は、全114曲のマンドリン・ギターの音楽作品の作曲、研究、教育、出版(1949年にOp.114 子供のためのアルバム)と、多岐にわたる。

 1949年、59歳でOSTの練習中に指揮台で倒れるまで、春秋2回、通算49回の定期演奏会を開催し、マンドリン・ギター音楽の普及・発展に、その一生を尽くした。

 

◎ 主な作曲作品 〔 〕は、TMC定演で演奏した曲

行く春〔第5回:マンドリン無伴奏曲〕、   翳(かげ)〔第5回:ギター独奏曲〕、   村祭り〔第1回〕、   みのる秋〔第1回〕、   月夜の笛〔第1回〕、   落葉の精〔第1・3・4回〕、   初秋の唄〔第3・4・5・32回〕、   軒訪るる秋雨〔第3・4回〕、   微風、   茜、   組曲 くだもの舞曲〔第5回〕、   幻想曲 朝鮮の印象〔第6回〕、   雨とコスモス、   黄色の花、   木蓮ありて、   春のノスタルジア、   糸を操る女、   踊る小花〔第32回〕、   殉国忠霊の家の前に立ちて〔第32回〕、   死せる若人に、   小行進曲〔第51回〕

以下の出典:ウィキペディア(抜粋)

 

比留間賢八:(1867/4/19~1936/4/15) マンドリン・ギター奏者、音楽教育家。

・・・1883年、チェロを専攻・・・1889年、ヨーロッパに渡り、1891年に帰国。このときにはじめて日本にハーモニカとツィターを持ち帰っている。1898年に再び渡欧し、ドイツとイタリアでマンドリン・クラシックギターと出会う。1901年にマンドリンとギターを持ち帰って帰国し、マンドリン・ギター教室を開いている。以後その普及に尽力し、日本のマンドリン音楽・クラシックギター音楽の源流となった。その門下には音楽家の齋藤秀雄武井守成、詩人の萩原朔太郎、画家の藤田嗣治・・・がいる。娘の比留間きぬ子もマンドリン奏者として活躍した。

 

田中常彦:慶應義塾マンドリンクラブは1910年に田中常彦ら慶應義塾大学の有志の学生によって創立されたマンドリンオーケストラ。2010年に創部100周年を迎える。

結成以後、宮田政夫による指導のもとで活動を行い、規模の拡大を進めていった。 1929年6月には宮田の後継として、以後70余年もの間常任指揮者として活動することとなる服部正を指揮者として活動を始める。ラジオ体操第一の作曲者としても知られる服部 正 は以後、当時マンドリン界において演奏されることの少なかったオーケストラ楽曲のマンドリンオーケストラ向け編曲や、ミュージカル・ファンタジー群の演奏への挑戦など、部に大きな影響を与えた。 

 

齋藤秀雄(1902/5/23~1974/9/18) チェロ奏者、指揮者、音楽教育者として活躍した音楽家
・・・最初に演奏したのはマンドリンだった。後に「オルケストル・エトワール」というマンドリンオーケストラを組織し、『フランス民謡「歌えよ小鳥やよ歌え」の主題による八つの変奏曲』などの曲を残している。

 

服部 正 (1908/3/17~2008/8/2)作曲家。日本のクラシック音楽の大衆化に努めた。

・・・学生時代にはマンドリンクラブに所属。1930年に「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」主催のマンドリンオーケストラ作曲コンクールで『叙情的風景』が入選。

付:服部克久(1936/11/1~2020/6/11)作曲家・編曲家の父親は服部良一(1907/10/1~1933/1/30)作曲家・編曲家・作詞家(村雨まさを)であり、服部 正 との血縁はない。

 

小澤征爾(1935/9/1~ )2002-2003年のシーズンから2009-2010年のシーズンまでウィーン国立歌劇場音楽監督を務めた世界的な指揮者である。

主な称号は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団名誉団員、ボストン交響楽団桂冠音楽監督、セイジ・オザワ 松本フェスティバル総監督など

1951年、成城学園高校に進んだが、齋藤秀雄の指揮教室に入門したため、1952年、齋藤の肝煎りで設立された桐朋女子高校音楽科へ第1期生として入学。・・・1955年、齋藤が教授を務める桐朋学園短期大学(現在の桐朋学園大学音楽学部)へ進学、1957年夏に同短期大学を卒業・・・
1984年9月、恩師である齋藤秀雄の没後10年を偲び、小澤と秋山和慶の呼びかけにより、世界中から齋藤の門下生100名以上が集まり、齋藤秀雄メモリアルコンサートを東京と大阪にて開催。このコンサートが後のサイトウ・キネン・オーケストラとなる。1987年に第1回ヨーロッパ楽旅を行い、ウィーン、ベルリン、ロンドン、パリ、フランクフルトにて成功をおさめる。1992年からはサイトウ・キネン・オーケストラの音楽監督として活動を開始・・・
2014年8月4日 長野県松本市の音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本(SKF)」が翌2015年から、小澤征爾の名を冠した「セイジ・オザワ松本フェスティバル」に・・・

2020/6/13 up

bottom of page